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2010年05月08日

君主論(岩波文庫)

347
ああ転落の女イタリア、苦しみの宿よ、
荒れ狂う波間に梶取りを失った船、
もはや四海の女王ではなく、誰にでも身を任せる!

337
「何らかの必要に迫られて、・・・邪な正体を現すであろう」___『ローマ史論』第一巻、第三章にも、人間の本性を悪として悲観した、同様の言及がある。「人間はみな邪であり、身勝手に振る舞う機会さえあれば、いつでも邪悪な本性を現そうとする」。

第二十五章
 運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか この世の事柄は運命と神によって支配されているので、人間が自分たちの思慮によって治められようはずもなく、ましてやこれに何らかの手当など施しようもないので、まさにそれゆえに世事には齷齪しても仕方なく、むしろ成行きに任せておいたほうが、判断として良いという意見を、多くの人びとが抱いてきたし、いまも抱いていることぐらい、私とて知らないわけではない。あらゆる人間の予測を超えて、日毎に、変転する大事態が見られたり、いまも見られつつある、私たちの時世にあって、このような意見はますます信じられやすいものとなってきた。そのことを思えば私とて、時には、彼らの意見に傾きかけるのであった。だがしかし、私たちの自由意志が消滅してしまわないように、私たちの行為の半ばまでを運命の女神が勝手に支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は、あるいはほぼそれぐらいまでの支配は、彼女が私たちに任せているのも真実である、と私は判断しておく。そしていまは運命をこのあたりの破壊的な河川の一つに擬えておこう。それは、怒り狂えば、平野を氾濫し、樹木や建物を破壊し、こちらの土地を削っては、あちらの側へ運ぶ。その押し寄せてくるのを前にして人びとは逃げまどい、激しい水の勢いに誰もが屈服し、どこの部分でも防ぐことができない。そして河川がそのように荒れ狂うものであっても、だからといって人間の側が、平穏な時世に、堤防や土手を築いて、備えを固めておけないわけではない。そのようにして、やがて水嵩が増したときには、水路へ流れを導き、激しい水勢や被害を食い止めることもできよう。同様の事態が、運命の場合にも生じうる。つまり、運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らってあらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、すなわち土手や堤防の築かれていない箇所を承知の上で、その場所へ、激しく襲いかかってくる。そしてもしもあなた方が、これらの変転の舞台と化しているイタリアのことを、またそれらに切っ掛けを与えた事態のことを、熟慮してみるならば、いまやそこが土手もなく、堤防の一つとしてない野原と化していることに、あなた方は気づくであろう。したがって、もしもこの土地が、ドイツやスペインやフランスのように、しかるべき人物の力量によって防衛されていたならば、この洪水もいまのごとき変転する大事態はもたらさなかったであろうし、あるいは洪水そのものも生じなかったであろう。そしていかに運命と対決すべきかについて、全般としては、これだけを述べておけば私には充分である。
 ただ、より細部に分け入るならば、まず言っておくが、性質や資質を何ら変えていないのに、ある君主が今日は栄えていたのに、明日は滅びるといった事態を、見かけることがある。これは、私の考えでは、まず初めに、これまで長々と論じてきた理由によって、生じたのである。すなわちその君主が、全面的に運命にもたれかかっていたので、それが変転するや、たちまち滅びてしまったのである。私の考えでは、その君主が幸運に恵まれたのは、彼の行動様式が時代に合っていたためであり、同様にして不運であったのは、彼の行動が時代と合わなかったためである。なぜなら、人間というものは、各人が行く手に抱く目標へ、すなわち栄光と富貴へ、おのれを導いてゆく事態のなかで、さまざまの行動することが知られているから。すなわち一人が慎重であれば他の一人は果敢であり、一人が暴力に訴えれば他の一人は策略を用い、一人が忍耐強ければ他の一人はその逆であるといったように、各人がそれぞれに異なった態度をとりながらも、目標へ到達できるのであるから。またさらには、慎重な態度をとった二人のうち、一方は目標へ到達したのに、他方がそうでなかったり、同様にまた一方が慎重であり他方が果敢であるというように、異なった行動様式をとりながら、二人が同じように幸運な結果へ達することもあるから、すなわちこれは、次第の特質が彼らの行動と合っていたのか、あるいはいなかったのか、それ以外のなにものからも生じなかったのである。この点から、先に私の述べたことが、すなわち二人が異なった活動をしながらも、同一の結果を達成したり、また二人が同じように活動しながら、一方が目標へ到達したのに他方がそうでなかったという事態が、生ずるのである。さらにまた、幸運の変転も、この点に依存しているのである。なぜならば、もしもある者が慎重にかつ忍耐強く統治して、時代と状況がその統治を良とするように回るならば、彼は栄えてゆくであろうから。だが、もしも時代と状況が変われば、彼の方が行動様式を変えないかぎり、滅びてしまう。この点に適合できるほど、思慮深い人間は、見出せない。なぜならば、生まれつきの性質が赴かせたところから、おのれの身を引き離すことなど、人間にはできないから。ましてや一つの道を辿って栄光の歩みを進めてきた者に、そこから離れた方が良いなどと、説得することはできないから。それゆえ、慎重な人間は、果敢になるべき時がきてもそうはできないので、そのために滅びてしまう。だが、もしも時代と状況に合わせて自分の性質が変わっていれば、自分の運命は変わらないであろうに。

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 結論を、したがって、出しておくが、運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致している間は幸運に恵まれるが、合致しなくなるや、不運になってしまう。私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち、慎重であるよりは果敢である方がまだ良い。なぜならば、運命は女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分のものにする必要があるから。そして周知のごとく、冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。なぜならば、彼らに慎重さは欠けるが、それだけ乱暴であるから。そして大胆であればあるほど、彼女を支配できるから。

132
したがって、君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、なかでも、狐と獅子を範とすべきである。なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないゆえに、したがって、狐となって罠を悟る必要があり、獅子となって狼を驚かす必要がある。単に獅子の立場にのみ身を置くものは、この事情を弁えないのである。そこで慎重な人物ならば、信義の履行が危害をもたらしそうな場合や、その約束をさせられたときの理由が失われた場合には、信義を守ることはできないし、また守るべきでもない。また人間がみな善良であるならば、このような勧告は善からぬものになるであろう。だが、人間は邪悪な存在であり、あなたに信義など守るはずもないゆえ、あなたのほうだってまた彼らにそれを守る必要はないのだから。ましてや君主たる者には、不履行を潤色するための合法的理由を生み出すことには事欠かなかったのだから。これに関してならば、現代の実例をも無数に挙げることができるであろうし、どれだけの和平が、どれだけの約束が、君主たちの不誠実によって、虚しく効力を失ってしまったかを、示すこともできるであろう。そして狐の業をより巧みに使いこなした者こそが、よりいっそうの成功を収めたのであった。だが、必要なのは、この狐の性質、これを巧みに潤色できることであり、偉大な偽装者にして隠蔽者たる方法を会得することである。また人間というものは非常に愚鈍であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者は、いつでも欺かれる者を見いだすであろう。

133
したがって、君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを現実に備えていることではなくて、それらを身につけているかのように見せかけることだ。いや、私としては敢えて言っておこう。すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、身につけているようなふりをするのは有益である、と。たとえば見るからに慈悲ぶかく、信義を守り、人間的で、誠実で、信心ぶかく、しかも実際にそうであることは、有益である。だが、そうでないことが必要になったときには、あなたはその逆になる方法を心得ていて、なおかつそれが実行できるような心構えを、あらかじめ整えておかねばならない。そして誰しも人は次のことを理解しておく必要がある。すなわち、君主たる者は、わけても新しい君主は、政体を保持するために、時に応じて信義に背き、慈悲心に背き、人間性に背き、宗教に背いて行動することが必要なので、人間を善良な存在と呼ぶための事項を何もかも守るわけにはいかない。またそれゆえに彼らは、運命の風向きや事態の変化が命ずるままに、おのれの行動様式を転換させる心構えを持ち、先に私が言ったごとく、可能なかぎり、善から離れることなく、しかも必要とあれば、断固として悪のなかへも入っていくすべを知らなければならない。
 君主たる者は、したがって、先に記した五つの身に備わっていないことを暴露してしまう言葉は、決して口から出さぬよう、充分に気をつけねばならない。そして外見上、聞くにつけ見るにつけ、いかにも慈悲ぶかく、いかにも信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちているかのように、振舞わねばならない。またとりわけ、この最後に挙げた資質を、身に備えていると見せかけること以上に、必要なことはない。そして人間というものは一般に、目で判断を下すのであって、手で判断することは少ない。なぜならば、目で見ることは誰にでもできるが、手で触れることは少数の者にしか許させないから。あなたの外見を誰もが目で知っていても、あなたの実体に手で触れられるのは少数の者たちだけであるから。そして多数の者たちが庇護を求めて政権の保持者を推し戴いているかぎり、少数の者たちが彼らの意見に敢えて異を唱えようはずもない。そしてすべての人間の行動は、ましてや訴えられても裁かれる所がない君主の場合には、結末だけが注目される。
 君主たる者は、したがって、ひたすら勝って政権を保持するがよい。手段はみなつねに栄誉のものとして正当化され、誰にでも賞賛されるであろう。なぜならば、大衆はいつでも外見と事の成り行きに心を奪われるのだから。そしてこの世に存在するのは大衆ばかりだから。大多数の者たちが拠り所をもつかぎり少数の者たちが入り込む余地はない。

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posted by hirono at 05:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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