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2010年05月04日

[告発]ツイッターでのつぶやきのまとめ【2009年5月4日(火)】

警察が客観的な公正な目で捜査をしたならば、初動捜査の誤りというのは、かなりの確率で防げるような気がします。一度間違った方向に進んでしまっても、決して立ち止まり、振り返ることのない警察というのは、やはり恐ろしく危うです。それが一つの抑止力になっている一面もあるのかもしれないけど。


posted at 04:13:44


自分の場合も、殴ったとかそういう行為としての事実は、初めから認めていたのですが、それでもしつこいぐらいに、念を押すような対応が感じられました。それが慎重で手堅い事件処理だと、彼らは思いこんでいたようです。


posted at 04:18:08


そのくせ、準強姦については、腫れ物に触るような感じで、核心に触れることを避けているような様子で、事態的な事実に対する質問というのは、ほとんどありませんでした。関係者の供述調書で、十分だとたかをくくっていたのかもしれません。


posted at 04:20:55


被害者の彼女にはYSKという彼氏がいたことになっています。その男は私が彼女のいる会社に移った直後に会社を辞めているのです。その後ほどなく別の女性と結婚したとも聞いていました。私がその会社に移ったのは平成3年の6月下旬のことです。


posted at 04:24:17


そして平成4年1月の21日になって、私は学生時代の先輩であったHTNから、彼女がYSKと付き合っていたと曖昧に知らされました。それは私が彼女と大げんかした直後のことでした。そして2月1日の夜22時頃、会社から自宅に戻る信号待ちで、後ろに止めた車から降りてきたYSKに声をかけられ、


posted at 04:29:09


二人で会社の休憩室で酒を買ってきて夜中の2時頃まで、いろいろと話をしたのです。YSKは彼女との付き合っていたことを否定し、仕事の用事で一度自宅に電話をしたことがあり、また、同じ金沢市内の高岡中学と、泉中学校の出身であったことから共通の友人の話をすることがあったという程度だと、


posted at 04:33:00


話していました。最後の方で意味ありげに、当時自分は人間不信に陥っていたとか、「殴りたくなるような女、わしゃ、初めからかまわん(相手にしない)ぞいね」と言っていました。


posted at 04:34:38


信号待ちでいきなり声を掛けられたのもいかにも不自然でしたが、そればかりではなく、その30分ほど前に会社の人気のない駐車場を、見慣れない車が進入してきて、ゆっくりと通り抜けて行ったのです。


posted at 04:36:41


そのとき私は5,6人の社員と休憩室に向かって歩いている時でした。常識的に無関係な車が通り抜けるような駐車場ではありません。運送会社の駐車場ですからそれなりの広さのある敷地です。


posted at 04:38:33


なにより奇異に感じたのは、おかしな車が入ってきたのに、誰もその車に目を向けようとはせず、不審なそぶりを見せなかったことです。会社は中央市場の横にある運送会社ですが、22時という時間は、ひっそりと静まりかえっています。


posted at 04:41:43


私自身中央市場に魚や野菜を運んでくる仕事をしていたので、よく知っているのですが、23時を過ぎた頃から、県外からトラックが集まってきて、じょじょに活気を帯びてきますが、それを別にしても、駐車場は市場の裏門からも離れているので、全く無人に近い状態で、表を通る車もまれです。


posted at 04:44:35


何より驚いたのは、上告審に入って国選の斐川雅之弁護士から郵送された供述調書を呼んだとき、YSKは、立場を逆にして、自分が信号待ちで停車していると、横から乱暴な運転の車が割り込んで止まり、私が降りてきて、彼女と付き合っているのかと、詰め寄ってきたというのです。


posted at 04:48:59


YSKは、私にTTKを探していると問い掛けて来たのです。私はその日の午前中に、今日は茨城の市場からTTKが4トン車で定期便を運んでくる、と聞かされていました。TTKは本来市内配達の運転手でしたが、11月頃から、ちょくちょく、茨城の定期便を手伝うようになっていました。


posted at 04:54:54


TTKは当時19歳でまだ現役の暴走族のようなことを言っていました。YSKは21歳で、TTKとは同じ高岡中学校の先輩後輩のような関係になるはずですが、見たところ、対等な関係と言うよりは、YSKが少し遠慮しているようにもみえました。


posted at 04:57:50


YSKは暴走族のリーダーをしていたともいい、体つきも大きく腕力もありそうでした。TTKの方は160センチぐらいと小柄で腕力もなさそうでしたが、ときどき勇ましい武勇伝のような話もしていました。口も達者で世渡り上手な感じで、まあ、暴走族にもよくいそうなタイプの男でした。


posted at 05:02:13


虚言癖の傾向もうかがえましたが、親が力でももっているのか、暴力団に頼れる知り合いでもいるのか、それなりに羽振りをきかしているように見えることもありました。学校の成績はまんじゅうつまり0点ばかりと自慢していましたが、社交的で頭の回るところもあるように見えました。


posted at 05:06:55


はったりなのか、本当の馬鹿なのかよくわからないところもあり、何より驚いたのは、事件後に福井刑務所を出所した平成9年の8月のことです。ちょうど盆休みのときでした。


posted at 05:08:59


金沢の東力に、「あすなろ公園」という場所があるのですが、一度、呼び出してあったことがあるのです。そのとき彼は、私に向かって、「広野さん、わしと、勝負しょうちゅううんがぁ、なんぼでもやってやるよ。」と言ってきたのです。言葉は、けんか腰のようですが、


posted at 05:12:17


そんな感情的に突っかかるような態度ではありませんでした。もちろん私は腹も立ちましたけれど、それ以上に驚いてしまいました。人気がなく近くに住宅はあるものの、その一角はうっそうとした場所なのです。実際、その気になれば、彼を殴り殺していたことでしょう。


posted at 05:17:04


まあ、そのときは、「お前らの悪事はよくわかっている、まとめて訴える手続きをしているところだ。」と言ったやりました。すると、いくらか心配になった様子で、「誰と誰を訴えるが?」と繰り返し、質問してきました。


posted at 05:21:02


このTTKとは、平成3年の11月中頃から、仕事で同行することが多くなりました。よく一緒に食事もしましたが、ジュース代を含め、すべてを私がおごっていました。私は能登の漁師町で生まれ育ち、周りには遠洋の漁師も多く、羽振りもよかったので、上の者が下の者に飲食を振る舞うのは、ごく当たり前


posted at 05:25:22


という感覚でいたのですが、その点、金沢の人間は違っていたと思います。学校の頃は上下関係の厳しい環境でもあり、平たく言えば、戦後の風土が薄まりながらもそのまま残っているような田舎だったのです。


posted at 05:27:59


当時給料は固定の50万円で、ほかに運航費も月に、8万円ぐらいはもらっていたような気がします。お金のことは気にもならなかったのですが、ジュースの一本も買って寄越したことがなかったので、まあ、そんな男かとは思っていました。


posted at 05:31:28


TTKが、私と行動を共に仕事をする機会が多くなったのは、社長や配車係の手配があったからだと思います。情報を聞き出せとか、話を吹き込めと指示した現場を見ている訳ではないので、確定とは言えないのかもしれませんが、本来、警察も裁判官も現場にいたわけではないのと同じです。


posted at 05:44:15


TTKに彼女との関係を話したのは、12月の10日頃だったと思います。彼は普通に、男っ気がない、関心もないようなことを言っていました。その間、彼女との間にも、毎日のように色んなことがありました。いちいち書けばきりもないし、18年も経過してしまっては、さすがに記憶もうすくなっている


posted at 05:49:10


ところがあります。2月の20日過ぎ、私はTTKを同乗させ、新潟に「いよかん」を降ろしに行きました。このときも手の込んだ仕掛けがあり、社長と配車係のTYNは、YSNを連れて行くように強く勧めていたのです。このYSNとの間にも色々あったのですが、そもそも私が、事件の舞台ともなった、


posted at 05:53:51


I運送会社に移って仕事をするような、きっかけを作ったのもこのYSNだったのです。YSNは私と同じ能都町(現在:能登町)の出身ですが、鵜川という町で、中学校も違っていました。彼とは16歳の頃、何度か遊んだことがあり、私が18歳の夏には、彼のアパートで8月の終わりから11月の10日頃


posted at 05:58:32


まで共同生活をしていたこともありました。二人で仕事もしないで、ガソリンを盗んでは車で遊び回っていたのですが、そのとき、彼は事故の保険でまとまったお金を持っていて、私は養ってもらっているような関係でした。彼は遊び慣れたところがあり、


posted at 06:01:11


そういうお金の面での世話は、まったく恩に着せることもありませんでした。私は16歳で石川県立水産高校小木分校を中退してから、19歳で、K運送会社で長距離のトラック運転手をするまで、満足に働くことがなく、長続きもせず、一番長くて、名古屋のバイク屋に住み込みにいった4ヶ月ぐらいでした。


posted at 06:04:32


ここでK運送会社が出ましたが、これが事件の舞台となったI運送会社の前身であり母体のような会社だったのです。I運送会社のM社長にしても、私より後に入ってきたこともあり、それなりに気を遣っているような関係でもありました。


posted at 06:07:17


なお、YSKとYSNは、上の名前が同じです。3つのアルファベットの初めが姓、次が名前で すが、Kは金沢、Nは能登を意味しています。私がまだK運送会社にいて、YSNに用事があっ て電話をしたとき、電話に出た被害者のAAは、「どちらのYですか?」と聞き返してきたのです。


posted at 06:14:04


私が金沢地方検察庁に告訴したのは、I運送会社の社長でK運送会社ができてから会長になったTSK。運転手から配車係になり、さらにI運送会社の社長になったMTK、I運送会社の女性事務員で当時50歳ぐらいだったIHK。 このIHKは、元々K運送会社にいたのですが、


posted at 06:24:21


なんと、私がI運送会社に移った当日か、翌日ぐらいからI運送会社で仕事をするようになり、毎日会社にいたのです。一方、被害者のAAは、3対1か、4対1ぐらいの掛け持ちで、K運送会社にしかないパソコンのデータ入力をしていたのです。


posted at 06:27:47


したがって、私は以前からK運送会社でAAの姿を見ていましたが、名前も全然しりませんでした。彼女は極端なぐらい無口で、美人でしたけど、運転手の間で話題にならない、存在でした。話題にも出しにくいような感じの女の子でしたが、運転手が素朴であったとも思います。


posted at 06:31:43


K運送会社は保冷の冷凍車で鮮魚を運ぶ仕事が中心でした。九州の福岡と、宮城県の塩釜、石巻港から定期便をやっていました。市場の仕事は時間にも厳しく、変わった人間でないとつとまらないようなところもありました。それぞれに個性的でもありましたが、女の子をからかうような人はいませんでした。


posted at 06:37:08


延着などすれば運転手の自己負担ということにもなっていましたし、それも鮮魚だと一回で1千万円にもなるような損害になる場合もあると聞かされていました。それでもよほどのことがない限り、延着などするものなどいませんでした。


posted at 06:40:51


それぞれがプライドや意地のようなものをかけて仕事をしていたからであったと思います。実際、当時は延着などすれば、死ぬほど格好が悪いと思っていましたし、大雨や台風、大雪の中でも時間に遅れることはなく、それが当たり前の世界でもあったと思います。


posted at 06:44:02


その分、運転手は会社に縛られることも気兼ねすることもなく、自由に振る舞っていました。運転手もだいたいは皆仲良く、同じ方向を走るときなどもドライブ感覚で、市場で夜中に荷物を降ろした後も、一緒に酒を飲み、友達付き合いや私生活が仕事の区別が、曖昧な仕事場でした。


posted at 06:49:20


基本的に、時間までに目的地に着き、荷物を無事降ろせば、過程はどうでもいいという感覚でしたし、魚や青果物の荷積みには、一晩現地に泊まることは当たり前で、2,3日待機で泊まるようなことも少なくありません。そんなときも、運転手同士は仲良くしていました。


posted at 06:52:36


そんな気心の知れた職場環境でしたし、一般の感覚とはずれていたと思いますが、独自の雰囲気というものがあり、AAさんは、そんな会社を気に入っていたみたいです。当時はいわゆるバブル景気の時代でもありました。どのような職場でも人手不足で、条件のよくない運送会社では、なり手も少なかった。


posted at 06:58:37


とりわけ市場の仕事は敬遠されていたようです。求人の応募自体、滅多にありませんでした。仕事がきついだけでなく、免許を失う可能性も高かったからです。だいたいが運転手からの紹介でした。ここに一つの接点があり、K運送会社では、輪島市の海士町の若者が多かったのですが、


posted at 07:06:06


海士町の若者の全員が、小木港の遠洋漁船の乗り組み経験者だったのです。小木は現在宇出津と同じ能登町になっていますが、当時は珠洲郡内浦町でした。私は船に乗らなかったのですが、友人関係の半数近くは、小木の漁師を経験していたと思います。


posted at 07:09:15


宇出津も漁港ですが、近海の漁です。寒ブリが名物にもなっています。小木の船は、イカや、鮭マス漁で5月ぐらいから12月頃まで、北海道からアリューシャン列島の方、アラスカや太平洋の真ん中にも漁に行くと聞いていたような覚えがあります。酒が好きで、連帯感も強いという特徴もありました。


posted at 07:13:52


地元では遠洋の漁師を経験しないと一人前の男とは認められないような風潮も一部にはあったと思いますが、私も、被告訴人のO兄弟も漁師はしていませんでした。私は気にもしなかったのですが、漁師に対して内に秘めた反感を持つ者もいたようです。


posted at 07:17:00


元々、宇出津や姫、間脇。小木は漁業で潤っていた町でした。姫などは新築住宅の建設率だったかが一番であったというような話も聞いたことがありました。漁師も危険な仕事です。海に落ちれば、ほとんど助からないと聞いていますし、巻き網の機械に巻き込まれて死んだという話も聞いています。


posted at 07:20:19


当時はまだ、ロシアではなくソビエトだったと思います。ちょうど私がK運送で仕事をするようになった頃だったと思います。姫や小木の船は、拿捕が相次ぎ、二百海里という国際問題も起こって、漁師町は壊滅的な大打撃を受けたのです。ロスケと彼らは呼んでいましたが、ロスケは狙って銃を撃ってくる、


posted at 07:25:01


と彼らは話していました。北朝鮮による銃撃で死亡した事件もありました。漁師が稼げなくなると、家も建たず大工も仕事がなくなり、失業者がいっぱい出て、金沢などに出稼ぎに出ていると聞いていました。当時自分は金沢に住んでいたこともあり、実際の程度はわからないのですが、


posted at 07:30:18


宇出津でも夜逃げや、自殺者が何人も出ていると聞いていました。当時、宇出津あたりの人間はヤクザ者のことを心底軽蔑し、忌み嫌うような風潮がありました。しかし、不景気になるのと比例して、ヤクザ者が力をつけ、羽振りをよくしているとも聞いていました。


posted at 07:34:03


私は地元で30人ぐらいの暴走族に入って遊び回っていたのですが、このグループに亀裂が入り、ばらばらになったのもそのヤクザ者が原因でした。ヤクザといっても、地元の田舎では組長をあわせ4人だったと聞いていました。そのナンバー2の人物が、


posted at 07:37:34


事務所のような住宅まで提供し、傘下に組み込もうとしてきたようです。私もその住宅で組長以外の3人とあったことがあったのですが、上から3番目の人物が、


posted at 07:39:44


町営住宅に住んでいたらしく、その隣に、私からすれば二つ年上の先輩になるのですが、YSNとは同級生の共通の友人が住んでいて、昭和56年の12月頃と推定されますが、ある夜、友達の住宅に集まってシンナー遊びをしていたところ、YSNが発狂して、となりの上から3番目のヤクザ者の家に、


posted at 07:44:02


上がり込み、布団で寝ていた婦人の首を締め上げたというのです。YSNはそのあと駅で保護され、金沢の精神病院に入院しました。後日本人から聞いた話だと、一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたということです。彼は、一緒にアパートで遊んでいた、半年ほど後にも、シンナーを吸って再発し、


posted at 07:48:59


入院したと聞いていますが、これは短期間の入院で済んだらしく、自分から病院に行ったとも話していました。金沢の畝田の風呂もないボロアパートだったのですが、そこには他にも居候がいて、基本的にたまり場だったのですが、一人はヤクザ者で、それも組から逃げている男でした。


posted at 07:51:44


保険金詐欺で警察からも探されていると言っていたと思います。いよいよ身が危ういというので、私は車に乗せて、宇出津に連れて行ったのです。その時、8号線バイパスのガソリンスタンドで、ヤクザ者の知り合いに出会い、私は消化器販売をすることになりました。


posted at 07:54:48


はっきり言って一種の悪徳商売でした。社会的問題としての声も高まり、商売がやりにくくなってきているとも聞いていましたが、がんばり次第では一日で10万円以上の金をつかむこともざらだと聞いていました。私は消火器売りを初めて、一週間も経たないうちにYSNを紹介しました。


posted at 07:58:30


半月ぐらい、あるいは一ヶ月は見習い期間と言うことで、売り上げに関係なく5千円だったかの日当をもらっていました。私は年寄りをだまして不当に高い消火器を売りつけることなどできず、相手が話を信じ込んで、お金を払いそうになると、吹き出して笑ってしまうことがあるぐらいでした。


posted at 08:01:56


見習いの日当の期間が終わると、すぐに辞めたというかいかなくなりました。YSNは眠っていた才能が開花したというか、水を得た魚のように売り上げをあげ、羽振りもよくなったみたいです。11月にアパートを出てからは、会うことも少なくなっていたのですが、彼は主張と称し、全国を巡って、


posted at 08:05:16


消火器を売りさばき、ホテルに泊まり歩いては、トルコ風呂(現在のソープランド)に入り浸っていると、話していました。彼は、消火器の仕事に誇りを持ち、本気で社会貢献をしているつもりみたいでした。私の方は呆れてしまったのですが、世話になった手前もあり、人のことをとやかく言える立場でも、


posted at 08:08:41


ありませんでした。一緒に消火器をやっていたのが昭和58年の9月頃で、K運送会社で長距離トラックの仕事を始めたのが、翌昭和59年の1月の10日頃だったと思います。この昭和59年はYSNと会うことも少なかったと思います。確か新潟で警察署に連れて行かれたと話していましたが、


posted at 08:13:41


逮捕はされなかったようです。彼は何度か車の当て逃げをしても捕まることがなく、水産高校も首の皮一枚で卒業し、高卒という資格を得たので、本当に悪運の強い男だと思います。交番の前で、警官に棍棒で車を叩かれながら逃げたこともありました。


posted at 08:17:53


ガソリンの盗み方でも、マフラーが地面にこすれて落ちた爆音の改造車で、少し離れたところでエンジンを切りながら停車。ドラム缶用の大きなポンプで、いっきにガソリンを抜き取り、爆音とともに走り去るという荒っぽい手口でした。


posted at 08:20:18


当時ナンパのメインストリートであった南町から武蔵が辻を夜中に改造車で入っていたとき、当時流行っていた暴力団の強制勧誘なのか、ヤクザが数十人道路の中に出て、道をふさごうとしたときも、彼はためらうこともなく、思いっきりアクセルを踏み込み突っ込んでいきました。


posted at 08:25:05


蜘蛛の子を散らすように、道は開けましたが、彼はそのあとも、涼しい顔をして車を走らせていました。当時私は、他の先輩などから、SYNと一緒にいるな、夜中に首を絞められるぞ、と強く言われたことがありましたが、当時はあまり気にもしないでいました。


posted at 08:30:07


そういえば、初めに発狂するしばらくまえ、珠洲市?田のシーサイドの急カーブで車を横転させ、横倒しか逆さまかは忘れましたが、横転した車の中で、沈黙が流れる中、突如、「ギンギラギンに、さりげなく」と歌を歌い始めたそうです。同乗していた女性は、心底気味悪がっていました。


posted at 08:34:08


彼ほどではなかったと思いますが、私もけっこうでたらめなことをやっていました。暴走族の延長のような感覚で、トラックに乗り、暴走運転のようなこともやっていたわけです。そんなわけで、K運送で仕事をするようになってからも、問題児の扱いを受け、くってかかる衝突などもありました。


posted at 08:39:15


最後は、冷凍食品の降ろし間違えをし、商品が溶けてだめになったとかで、周りから給料はもらえないといわれ、他にも何かあったような気もしますが、事務所の人から無視されるようにもなったので、そのまま行かなくなったのです。その時、社長も椅子に座っていましたが、何も言わずに黙っていました。


posted at 08:46:38


これが10月の中頃のことで、1年もいなかったのです。この間のことですが、事務所に入ってくると、奥の社長の机の前で、丁寧に挨拶をして、帰ろうとする男の姿を見かけました。服装から一見してその筋の人間であることはうかがえましたが、見覚えのある顔で、まず間違いなく、○○とよばれていた、


posted at 08:51:03


YSNに首を絞められた夫人の旦那でした。私は、福井刑務所にいるときも、第二工場で、K運送会社の社長を知るという人物二人と、毎日同じ班で、一緒に作業をしていました。そのとき、K運送会社の社長は、田舎で金貸しをして儲けていると、教えてもらいましたが、ややもったいをつけた感じで、


posted at 08:55:20


詳しいことは教えてもらえませんでした。一人は薬物関係の受刑者で、時期からだいたい察しがついていました。前後しますが、私はK運送をやめてすぐ、被告訴人OKNに自分の車を廃車にされ、現金で10万円もらったのです。


posted at 08:58:43


飲みに行ってぱーっと使ってしまおうという魂胆も見え見えだったので、仕事を探すつもりで北海道に行きました。札幌で半月ほど、住み込みのちり紙交換をし、お金もなくなり帰れなくなりそうだったので、同じ部屋にいた16歳の滝川市の少年と、21歳の帯広市の青年をそそのかし、一緒に青年の車で、


posted at 09:02:28


金沢に帰ってきたのです。たまり場になっていたアパートから数人で土方のアルバイトをし、免停があけてから、当時金沢でもっとも仕事が厳しく、高速をぶっ飛ばして走ると噂されていたN運送に勤めました。遊んでばかりいましたが、やるなら人にやれないような仕事をしたいという気持ちが強く、


posted at 09:06:15


そんな会社に行ったのですが、当時の漁師友達の影響も強かったと思います。その会社には、昭和61年の2月一杯までいました。1年3月ほどですが、それでも運転手の中では、2番目に古くなっていました。仕事もきつかったけれど、何かとでたらめな会社でした。


posted at 09:09:43


自慢話のようにもなりますし、こまかいことは書きませんが、何度も死にかけるような体験をしたことで、控えめに仕事をしいても、実力もついたのだと思いますが、すごく高い評価をうけるようになったのです。これは、再び、K運送に戻ってからのことです。


posted at 09:14:37


そのN運送のトラックに乗っているとき、音沙汰のなかったYSNが、K運送で、市内配達の仕事をしていると耳にしました。前に私がいた頃は、市内配達の仕事などしておらず、長距離専門だったのですが、これが、I運送の母体にもなったのです。


posted at 09:17:25


当時K運送の事務所は、中央市場の正門の通り、2階建てのテナントビルの2階になり、二部屋を借りていました。一部屋は奥の方に机が5つか6つならべて、配車係や事務の人が座り、手前のテーブルが、運転手の休憩所のようになっていました。多く見て10トン車が10台、4トン車が10台ぐらいの会社


posted at 09:22:45


でした。運転手同士でも長ければ半年顔を合わせないことがあると聞いていました。もう一部屋がまるまる社長室で、奥の方に社長の机がありました。当時から、他に金儲けをしている雰囲気は強かったのですが、つかみ所のない得たいのしれない一面もあるような社長でした。それでいて、


posted at 09:26:11


運転手には思いっきり馬鹿にされていて、まともに相手にされない、という一面もありました。昔、暴力団の組長であったとか、中央大学の空手部にいた、という話は、当時から聞いたいましたが、結局、正体のしれない存在で、それ以上に関心も持ちませんでした。気になったと言えば、


posted at 09:29:20


なぜ、そこまで運転手にこけにされているのだろう、ということぐらいでした。前にも書きましたが、半年以上同じ会社で仕事をしたこともなかったので、比較もできませんでした。福井刑務所にいるとき、金沢のトラックのディーラーの社員で、強盗事件を起こし服役してきた人がいました。


posted at 09:33:20


とてもまじめそうな人で、それだけに潔癖体質であったのかもしれないのですが、TSK社長の話を聞くと、それだけで不機嫌になり、「人を食ったような親父や」などといい、多くを語ろうともしませんでした。同じ部屋だった富山で脅迫か恐喝で入ってきた受刑者も、TSK社長と同じぐらいの年頃でしたが


posted at 09:37:18


昔因縁もある間柄であったらしく、喧嘩をするとキチガイみたいや男で、何かを手に持って追いかけてきたようなことも話していましたが、もうほとんど覚えていません。印象的だったのは、二十歳頃か、若いときに、


posted at 09:39:38


北朝鮮からやってきた朝鮮人だ。という話でした。しかし、私はこの話を信じることが出来ませんでした。なぜならTSK社長は、その世代の典型的な金沢弁を典型的なイントネーションで話していたからです。昔家の近所にも、朝鮮人と言われる、おばあさんがいたのですが、話かたのイントネーションが、


posted at 09:42:43


他の人とは、あまりに違っていたので、その印象が強かったのです。半信半疑で話を聞いていましたが、実際、信憑性は乏しいと思っています。ただ、社長になったMTKも、富山でヤクザをしていたと話していて、これは本当の可能性が高いと感じていました。


posted at 09:47:00


この富山の受刑者は、一月ぐらいで2級生になり、4階の居房に移り、T班長と同じ部屋になったと聞きます。T班長が、薬物仲間の溜まり場の常連で、○○組の組員であったことは、出所後まもなく、電話でYSNから聞きました。


posted at 09:51:59


話が少し前に戻りますが、YSNがK運送にいると聞き、中央市場の近くを通りかかったとき、事務所の前の道路にトラックをとめ、窓から顔を出した蛸島のKに聞いたところによると、一週間ほど前に、岐阜に出稼ぎに行くと言ってやめたとのことでした。


posted at 09:55:47


昭和60年の夏のことですが、YSNどれぐらいの間、K運送にいたのかはわかりません。平成3年の4月の終わりか5月の初め頃、YSNの方から連絡を寄越し、W運送にいた。辞めて仕事を探していると持ちかけ、私の紹介でK運送で働くことになったとき、会長も社長も、まるで初対面のような、


posted at 10:00:08


よそよそしい、ごく普通の態度で、変には思っていたのです。あの狭い事務所で市内配達であれば、毎日顔を合わしていたはずなのに、双方がまるで初対面という態度で、ドラマの撮影をしている役者にも思えたのです。


posted at 10:02:59


余談になりますが、私は一度だけ本物のドラマの撮影をみたことがありました。平成2年の夏頃だったと思いますが、「ゴリラ」とかいう映画かドラマの撮影を、福岡の魚市場のなかでやっていました。神田正輝と館ひろしがいましたが、無言で黙りこくっていて、ずいぶん意外に感じました。


posted at 10:06:23


MTK社長のことですが、金沢生まれで、二十歳頃に富山に行き、水商売を初め、4,5軒か、5,6軒ほどの店を持つようになったと自慢していました。本当か知りませんが、カラオケを飲み屋で始めたのも自分のアイデアで、それが初めてだったと自慢していました。


posted at 10:10:31


その後、静岡県の清水市だったかに移り住み、そこでサラ金を始めて大もうけをし、御殿のような家を建てたとも。官庁か大きなところを相手に、大がかりな詐欺をやり、指名手配がかかって、金沢に逃げ、それでK運送で運転手をするようになったとも。1年ほどして警察に捕まり、


posted at 10:16:02


確か1年と言っていて、ずいぶん短い刑だとも思いながら聞いていたのですが、出所の時も会長が迎えに来ていて、ふたたび働き始めた、と言っていました。


posted at 10:18:06


こんな話を、私は夏の夕方、明るい時間に北安江の焼き肉屋で聞かされたのです。その時、一緒にいた蛸島のTSNさんは、その1年半後ぐらいに、自殺をしました。松波の港で、くるくる買ったばかりの赤色の軽四を3回転ほどさせてから、海に飛び込んだそうです。


posted at 10:22:12


TSNさんは、O兄弟の兄とも親しく、兄ととても親しい同級生の女性が、TSNさんの妻でした。この兄とHTNは、昔から兄弟分のような仲でした。金沢刑務所にいるとき、昔、暴力団でHTNの兄貴分のような関係であったという人と同じ工場になったのですが、TSNさんが死んだことで、1億円か、


posted at 10:26:02


それ以上の大金が転がりこみ、ほどなく、野々市か松任市か、はっきり思い出せませんが、○○重機のような会社の、社長であったか、息子であったか忘れましたが、再婚したそうです。しかし、その話もにわかに信じ難いと思いました。


posted at 10:29:25


なぜなら1億円の支払いを受けるには、月々の支払いも相当大きいと雑誌で読んだことがあるからです。それに、確か子供が4人いると、聞いていたように思います。全部男の子と聞いたような記憶もかすかに残っています。O兄は、蛸島のTSNさんのことを兄貴分のように慕っている一面もありました。


posted at 10:35:40


その蛸島のTSNの未亡人とは平成3年中に、2度会っています。初めは9月の仲頃に、O兄の結婚祝いが、O弟の家で、あったときです。20台とおぼしき男性と一緒でした。もうひとつ印象的だったのは、鳶職として独立して会社を作っていた、O兄の従業員の礼儀正しさです。


posted at 10:40:27


なにかテレビで見たホストクラブの先輩後輩の関係のような、右翼団体の住み込みみたいな。骨身に浸透した絶対服従の関係が強く伝わりました。平成5年10月、私は福井刑務所で服役中でしたが、出所した平成9年、出て一月ほどした頃に、テレビニュースを見て驚きました。父親が鳶職の19歳の社員


posted at 10:45:19


二人を殺したとしって、控訴審が始まったというニュースだったと思います。父親に50万円貸したが、返してもらえず、執拗に催促したところ、窮鼠猫を噛む感じで、殺害されたと報道されていました。金沢地方検察庁は強盗殺人で死刑を求刑していましたが、強盗は認められなかったように記憶しています。


posted at 10:48:31


金沢地方検察庁が上告を断念したのであったか、無期懲役が確定しました。平成3年の春だったと思いますが、金沢港の近くのO弟のアパートに遊びに行ったとき、あるいは引っ越しの手伝いをしに行ったときのことです。O兄弟の父親と、HTNが連れだって部屋に入ってきました。


posted at 10:58:30


はっきり覚えていないのですが、O兄と3人で来たのかもしれません。どんな会話があったのか細かいことは覚えていないのですが、HTNが、父親に向かって、「ハゲ」と、悪さをした子供を叱るように呼びかける場面がありました。


posted at 11:01:12


O兄は押し殺したように下を向いて黙っていましたが、この関係は明らかに普通でないと察しました。父親の昔からの兄弟分が、東京でヤクザをやっていて、事務所開きをすることになったと言われ、祝い金を求められ、そのお返しとして、灰皿のような物をもらったのも、この頃だったと思います。


posted at 11:03:56


話は変わりますが、平成3年の7月頃、新聞で大規模な薬物密売の事件が報じられていました。それからしばらくたった頃、市内配達の青果物の荷積み現場で、歩きながら、YSNが、その薬物事件のことを話し出し、自分が前に働いていた片町の飲み屋と関係があり、驚いたとか言っていました。


posted at 11:08:57


その飲み屋の名前は今でも覚えていますが、確かその店長というか経営者が、福井刑務所で私が一緒だったTやYととても親しく、いつもどこかで一緒にいたと話していました。ことさらに仲の良さを強調することで、餌をちらつかせて探りをいれているようにも思えました。


posted at 11:12:08


平成16年に、直接YSNと会って話をしたときも、私が逮捕され半年もすると、I運送の長距離部は、K運送に戻ることになったといい、そのあたりに、二人ほど運転手が死んだことも話していました。一人は事故だったと思いますが、もう一人は石巻港で泊まりの時、首を吊ったと言っていましたが、


posted at 11:18:54


なにか意味ありげな言い回しを役者が醸しているような感じもしました。深く立ち入るなという黙示の警告のような。すでにネットで名前を公開していることも話しましたが、これは8月の連休の時だったと思います。その前回は、正月休みで、29日頃だったかもしれません。平成15年になりそうです。


posted at 11:22:33


はるかに露骨で、悲痛に訴えてきたのがO兄でした。私に過去のことは忘れろ、と繰り返し。後には、独り言をつぶやくように「いうこときかんやつは、殺してしまえ。殺してしまえばいい。」と呪文のような言葉を投げかけてきました。それは兄弟に共通した、私に対する切なる願いのようでもありました。


posted at 11:26:45


彼らの願いは疑問はあるものの、一応筋道の立つものでした。つまり、自分らの父親の2少年殺人事件のほとぼりが冷めてきたところなのに、世間の関心を蒸し返すようなことはするな、という意味だったと思います。それらしいことを必死に伝えようとしていました。


posted at 11:36:09


仮にそうであれば、初めから刑務所帰りの私など相手にしなければよいこと。O弟は、まま北安江の借家を紹介してくれ、何もいわないまま、当たり前のように保証人にもなってくれていたのです。宇出津から金沢への引っ越しも、トラックを借りてきて手伝ってくれました。


posted at 11:40:03


それで私から1円ももらおうとしなかったばかりか、引っ越した家でゴキブリが見つかると、コンビニに行き、色んな種類のゴキブリ駆除を沢山、パンとかも沢山買ってきました。仕事のある日の深夜に及ぶ引っ越しでした。


posted at 11:43:05


なお、O兄弟の父親が逮捕勾留されていたのも金沢中警察署でした。私は1年半、O弟ことOKNと同じ同級生で同じ宇出津の被告訴人KYNの配管屋で仕事をしました。これも平成10年の12月頃、不景気だ仕事がなくなっていると、言いながら一致団結するため、仕事にのみ専念することを誓え、


posted at 11:47:14


と血判状を要求するような決断を迫り、再審請求を阻止しようとしたのです。はっきりと再審請求をやめてくれとは、さすがに口にはしませんでしたが、より強固に長期間にわたり執拗に迫りました。要求はのめないと、辞めることにしたのですが。


posted at 11:50:25


年老いた母親のことを考えろと、説教をたれたあげく、年末一杯でやめる直前になって、失業保険はない、と畳みかけるように突き放したのです。そのあと、平成11年になってから、1月の20日頃だったと思います。不動産の仕事を手伝うことを持ちかけられ、


posted at 11:54:26


始めに、夕方暗くなってからですが、O弟が営業課長をする。駅西の不動産会社の事務所の中に招かれ、ちらしなど見せられながら、リフォームの営業の説明など受けました。


posted at 11:57:04


いざ、口車に乗せられ、飛び込み営業の仕事を始めると、彼はそれまで10年ほど勤め上げ、営業課長にもなっていたその不動産会社をやめたと言い出しました。はじめは、「月に15万(あるいは20万)は、いるわな」と言いながら、未経験の見習いなのでそれくらいの面倒はみてやる、ような期待をさせ、


posted at 12:01:46


しばらくすると、夜に金沢駅近くの雑居ビルのサラ金の自販機の前に連れて行かれ、15万円引き出し。貸してやる、と言い出しました。結局2月の20日頃まで、彼の付き合いをさせられ、チラシを持っての飛び込み営業や、住宅見学会の案内を手伝ったりしたのですが、出来高払いが当然などとお金は


posted at 12:06:03


一銭ももらえず、ガソリン代だけ自腹ではらったようなものでした。食事代を払ってくれたり缶コーヒーはなんどかもらいましたが。私は当時、家賃や光熱費だけでも10万円近くの支払いがあり、生活保護のことも知らなかったので、絶望的に焦っていました。


posted at 12:11:49


その年の4月頃、懇意にしている豊蔵組という建設会社の、出張社員が東京の寮でとか、群馬の山に大きな仕事があるとか甘い誘いを再びかけてきました。相当焦っていたのか意味不明の話でしたが、乗れば、群馬の山に埋められることを想像しました。


posted at 12:16:53


そのとき、西宅建株式会社の西泉あたりの展示住宅にいたのですが、そとで話をしているとき、「お前とあいつ(自分の父親)は、いつかでっかいことやると思っとったわい。」などと言いながら不敵な笑いを見せていました。甘い話には乗ってこないと、分かったあとのことです。


posted at 12:22:11


なお、その15万円は、私が服役している間に、二月8万円の年金で生活している私の母親が支払ったそうです。私が前回と同じく満期で金沢刑務所を出たのは、平成13年の大晦日12月31日のことでした。


posted at 12:25:16


この2回目の服役では、足を悪くしていたこともあり、宇出津に住む母親は、一度も面会にこなかったと思います。迎えにくるという話もありませんでした。この満期出所日を、私はその半月ほど前まで、ずっと12月21日だと思いこんでいました。聞き間違えをすることはない日付のはずです。


posted at 12:29:15


いずれにせよ、半月ほど前に刑務官から12月31日だと言われました。当日、朝10時から11時の間に、いつも尋常ではないしかめっ面の警備隊隊長に見送られ、門の外に出ました。すると、横の駐車場にO弟がワゴン車に乗って待っていました。


posted at 12:32:32



[告発]次のPDFファイルの中に、私立学校の理事長としての被告訴人O弟の名前があります。一年ぶりぐらいでしょうか確認したのは、石川県のホームページみたいです。http://www.pref.ishikawa.jp/soumu/bunkyo/meibo.pdf

posted at 17:30:03

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posted by hirono at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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